days of cinema, music and food

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Invictus


原題の「invictus」とはラテン語
英語の「invincible」に該当するそうです。
無敵の、不屈の、揺ぎ無い、といった意味ですね。


ようやっと観られました。
クリント・イーストウッドの新作『インビクタス 負けざる者たち』を。
日曜12時40分からの回、やや小ぶりのシネコン内の小屋は半分程の入りでした。


ネルソン・マンデラ大統領が自身の政権発足後の1995年に、黒人と白人で一緒に国を再建しようというメッセージを込めて、自国開催のラグビー・ワールドカップに出場した自国ティームを強化させ、何と優勝させたという実話ものです。
映画のポスターも白を基調し、ティームのキャプテンであるピナールを演じるマット・デイモンの笑顔を配した明るいものですが、モーガン・フリーマン演ずるマンデラの後姿で偉大さを感じさせるデザインとなっています。
映画の内容を上手く伝えたデザインですね。


そう、概して「根暗」と言われるイーストウッド映画の中で、これだけ明るさが前面に出た映画は珍しい。
何しろ死人も悪人も出ない映画なのですから。
前作『グラン・トリノ』で落とし前を付けて吹っ切れたのでしょうか。
今作の明るさ、今製作中のデイモン主演の超常現象スリラーなんて新たな題材(この手の映画は、スピルバーグが製作総指揮をしていたTVシリーズ、『世にも不思議なアメージング・ストーリー』での監督(1985年)以来では)なんて近況を見ると、そう勘繰りたくなるものです。
彼にしては珍しく「勝利」で終わる映画ですが、それでも「負け犬」に対する共感が基調となっている点、揺るぎ無い信念を持った人物を主人公に据えた点において、紛れも無いイーストウッド映画になっています。


そしてイーストウッドが俳優として見せるあの足取り、ゆったりと大股に歩くあの歩調が、彼の演出にも味として出ているのは周知の事実ですが、本作も然り。
焦らず急がず、ゆったりと歩を進め、じっくりとしかし簡潔に、これ見よがしさを排除した演出は健在です。
間延びせず、思わず頬を緩めてしまうユーモアを配し、自信を持って「語るべきこと」「語らるべきでないこと」を選別し、飽くまでも物語と人物を描くことに徹する姿勢。
例えば、マンデラが妻子と不和なのを語って人物像を理想化せず、しかしメインプロットに不要とばかりにその理由などは描き出しません。
そして的確な映像。
例えば、1本の道路を隔てて黒人と白人がそれぞれスポーツに興じる様子、その道路をマンデラを乗せた車が走るときの彼らの対照的な反応を示して、南アフリカの現状をさらりと映像だけで見せてしまう演出。
あるいはクライマクスのニュージーランドとの決勝戦で、スタンドの大観衆、テレビ観戦やラジオ観戦に興じる人々を、フィールド内のプレイとカットバックさせ、人々の融和を描き出す視点。
ここの主眼が対ニュージーランドとの激烈極める戦いがメインではない、ゲームを観る人々がメインなのだと明確です。
淡い色調と陰影が目立つ映像も彼好みです。


マンデラを演じるフリーマンは全く素晴らしい。
観ている間、モーガン・フリーマンという名優の存在を忘れさせ、マンデラのカリスマティックで心なごむ言動に耳目を行かせます。
目元のみメイクアップで実在のマンデラに似せていますが、それ以上に演技でなりきっている。
マンデラが乗り移ったかのようと書くと、何やらオカルトめいた禍々しさを感じるかも知れませんが、マンデラに包み込まれているかのようと書くと、少しは雰囲気は伝わるでしょうか。
そこに居るのは、内面の欠点や悲しみ、苦しみを想像させつつ、他者に強要させない寛容で包容力のある人物なのです。
また、デイモンも素晴らしかった。
白い肌に映えるブロンドと、日焼けした顔。
鍛え抜かれた肉体。
真摯に物事に取り組む姿。
マンデラとピナールという2人のリーダーの描き分けもされていますが、同時に共通する点も描かれています。
皆が幸せになるべくヴィジョンを備え、それに対する戦略を持ち、明確な戦術を提示する。
優れたリーダーシップを持った主人公たちを描いたイーストウッドの意図は、混乱した現代に対するメッセージなのかも知れません。
そしてまた、復讐よりも寛容や許しを主人公に託したのも、また最近のイーストウッドらしいと言えます。


ただしこれが大傑作かというとそうではありません。
緩やかな前半を心地良く感じた私のような観客もいれば、そうでないと感じる観客もいることでしょう。
また、ティームの強化プロセスの描写が殆ど省かれているので、弱体ティームがメンタル面だけでいきなり強豪になってしまったかのような印象を受けます。
それでもこの佳作の素晴らしさ比べ、そんなのは些細な瑕疵にしか過ぎません。


イーストウッド神格化を嫌悪するだけの無意味な批評も、最近は見かけるようになりました。
しかしそんな詰まらない感情だけで否定するのは、良作を意味無く否定するのと同様。
これは肩の力を降ろしたイーストウッド同様に、我々観客もリラックスして楽しみたい映画なのです。