days of cinema, music and food

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On Chesil Beach

”On Chesil Beach” poster
追想』鑑賞。イアン・マキューアンが原作と脚色とあって、「痛い」映画だろうと身構えて観に行ったら、やはりそうであった。マキューアン原作ものにはジョー・ライト監督の佳作『つぐない』があって、あちらも観終えて胸が痛くなる映画だったし、小説では随分と前に読んだ『イノセント』がやはり痛い通過儀礼ものだった。などと書けば、私の身構え振りも多少は伝わっただろうか。


映画は1962年のイギリスから始まる。大学を卒業したばかりで歴史学者を目指すエドワード(ビリー・ハウル)と、ヴァイオリニストのフローレンス(シアーシャ・ローナン)の結婚初夜を起点に、過去との往復、そしてその後を描いた作品だ。曇天のチェシル・ビーチの下で、ローナンのハッとするような透き通った青い瞳とドレスが美しい。撮影監督はショーン・ボビット。湿り気を切り取ったかのような映像が美麗だ。


若い主人公らの人としての様やそれぞれが置かれた環境は、初夜における頻繁な回想場面で明らかになって行く。過去に行ったり来たりの構成だが、とっちらかることなく、むしろ観客の興味を持続させる作りになっていて、ドミニク・クック監督の腕は悪くない。ビリー・ハウルは若さならではの率直さと危うさを体現しているし、シアーシャ・ローナンは思慮深く愛情に溢れた知的な女性を好演している。まぁしかしだ、先日観たアメリカ人高校生役『レディ・バード』(グレタ・ガーウィグ脚本&監督の傑作!)と打って変わっての演技で、彼女の演技力の幅広さを実感する。むしろあちらのレディ・バード役の方が、彼女としては異色と言えたのだろうが、ローナンが現代最高の若手女優の1人なのは間違いない。そう言えば、前述の『つぐない』にも子役時代のローナンが大きな役で出ていた。
閑話休題。観客が2人を知るに連れて、いよいよベッドインと言うときのエドワードとフローレンスの性的興奮と緊張が高まった時、2人のみならず観客も奈落の底に落とされることになる。


ある意味、底意地の悪い映画である。観客の心を試すかのような映画でもあるのだから。後半で「あれ、映像が飛んでる。ヘンな編集だな」と思っていたら、その飛んだ部分が最後の最後にまた痛い描写として出て来るという、徹頭徹尾意地悪な映画だ。それでも私はこの映画を気に入った。


映画の後半は主にエドワード側から描かれていて、フローレンス側の心理はほのめかされる程度である。だがこの2人、初夜を越えても上手く行ったのだろうか。恐らく違うだろう。根本的な理解が違うのだから。古風な家庭に育ちながら、実は自立した大人でリーダー気質で先進的なフローレンスは、かつてモノ扱いされてトラウマとなっていた。それがエドワードとのベッドインで思い出されたのだ。自立したいのに、また自分はモノ扱いされるのではないか、と。果たして実は幼いエドワードにそれが理解出来たのだろうか。理解できるには時間が必要だったのではないか。


人生を後から振り返った時に、明らかに岐路と思える時間と場所があったとしたら。エドワードとフローレンスにとってはチェシル・ビーチだった。だがそれは、誰にでもあるかも知れない所なのだろう。あの時こうしておけば。あの時もっと知っていれば。あの時もっと相手に対して思いやりが持てたら。だが時間は無情にも過ぎて行くし、戻る事は叶わない。人生は続いて行くのだ。異色の青春映画とも言えるタッチで描きつつ、人生の残酷さ、時の残酷さを描きながら、だからこそ、その時その時を儚く美し捉えている映画だ。


今年観た『君の名前で僕を呼んで』にも、恋が終わった後に寄り添ってくれる父親がいたが、こちらにも知的で思いやりのある父親像があった。邦画では中々無い、ある種の理想像なように思えた。
機会があれば是非。