days of cinema, music and food

徒然なるままに、食い・映画などの情報を書いていきます。分館の映画レビュー専門ブログhttp://d.hatena.ne.jp/horkals/もあります。

Hearefter


娘を実家に預けて妻と『ヒア アフター』を観に行って来ました。
平日水曜日18時50分からの回、20人の入りでした。


フランス人ジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、ヴァカンス先の南の島で大津波に襲われ、臨死体験をします。
帰国後、死の世界のヴィジョンが脳裏から離れない彼女は、1冊の本を書き上げようとします。
アメリカ人霊能者のジョージ(マット・デイモン)は、霊界にいる死者と交信出来る能力を持っており、かつて持てはやされていたようですが、今は自らの力を封印し、孤独に生きています。
彼は越してきたばかりで孤独なメラニーブライス・ダラス・ハワード)と料理教室で知り合います。
ロンドンに住むマーカスとジェイソン(フランキー・マクラレンとジョージ・マクラレン)の11歳の双子兄弟は、ジェイソンの死により突如引き裂かれます。
無口なジェイソンは饒舌だったマーカスの声を求めて、霊能者に当たって行きます。


妻はクリント・イーストウッドの映画は基本的に乗り気でないようなのです。
理由は「良い映画を撮るとは思うけど、観ていて”痛い”から」との事。
今回の映画は先日の経験もあってか、余計に妻には痛かったようでした。


事前にはイーストウッド版『大霊界』だの、M・ナイト・シャマラン風だの言われていましたが、実際に観ると紛う無きイーストウッド作品。
キワモノ風な題材のようですが、映画を観る限りではイーストウッドは死後の世界を本気では信じていないようです。
否定はしなくとも、あるかどうかは分からないとしているようでした。
リアリズム中心という作風は過去のイーストウッド映画と変わりありません。
例えば冒頭の津波場面は、近年の大掛かりなVFX映画に負けず劣らずの大迫力でした。
しかしパニック大作のようなスペクタクルとしてはまったく描かれておらず、飽くまでもヒロインのマリーの体験として描かれているのがイーストウッドらしい。
観客自身が津波に巻き込まれてしまったかのような映像と編集、音響が凄まじく、この賢い描写には唸らされます。


多くの人が自分の周囲も含めて体験しているであろう死。
映画はそれに対する各人の切実な反応と、そこから先の再生を描いたものとなっています。
イーストウッド映画によく登場する無口で内に痛みを秘めた孤高のヒーローは、この映画では何と11歳の少年マーカスなのです。
里親からお金を盗んでまで十数秒先に生まれた兄の声を求めるマーカスは、ただひたすら亡き兄の声を求めます。
無口で無表情だからこそ、少年の痛みが伝わって来ます。
前作『インビクタス 負けざる者』で、一見すると新たな作風に踏み出したかのようなイーストウッドですが、こちらはさらに枯れてゆったりとした演出。
人物の痛みが伝わる演出も健在で、あちらの作品よりもむしろこちらの作品の方が、イーストウッドらしいと思いました。


『クィーン』や『フロスト×ニクソン』といった傑作、佳作の脚本家ピーター・モーガンの脚本は、先の作品で特色となっていた緻密な構成は放棄し、ゆるやかな曲線で各人の心の軌跡を描いています。
いずれ彼ら3人がどこかで会うだろうというのは、観客側からすると予想される事ですが、だからと言って奇をてらいません。
飽くまでも偶然の必然とでも言いたげに、彼らの遭遇を目玉にしていないのです。
ですから仕掛けとか伏線は気にせず、私もゆったりと映画に浸れました。
余りに素直で淡々としている為に中盤はやや長く感じますが、それでも映画のテーマの1つである「死者に再会したいという切実な想い」は、十分に耳を傾けるだけの価値があります。
そして死に対する各人の反応に、観客それぞれが自分を重ね合わせられると思いました。


セシル・ド・フランス、マーカスとジェイソンを演じたマクラレン兄弟(彼らは生き残ったマーカスも演じています)、ブライス・ダラス・ハワードジョージの兄役ジェイ・モーアらが特に印象に残りました。
デイモンも好演ですが、基本的に受けの演技なので少々損な役回りだったかも知れません。
マリーが出会うマルト・ケラーは、『ブラック・サンデー』のテロリスト役で先日観たばかり
今やオペラ演出家としても活躍中との事ですが、美しく老けていました。