days of cinema, music and food

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祖父、亡くなる


駐車場で娘と一緒に父母会に出ていた妻を待っていたところ、父から携帯に電話がありました。
13時半頃に母方の祖父が永眠したとの事です。
85歳でした。
先日の旅行記に記したように祖父が末期がんと判明したのは8月で、余命は持って半年と宣告されていました。
訃報を聞いて最初に思ったのは、先日お見舞いに行って良かった、という事です。
亡くなる直前に容態が急変したそうですが、恐らく苦しまずに死んだのではないでしょうか。
先日の3日間の滞在中、祖父を抱えてベッドに移動させたりと、普段だったら中々出来ない経験が出来たのも、私としては良かった。
少しでも孝行出来たと思えるからです。


祖父は元々家業の農家を継ぐ予定は無く、工業系の会社で好きな機会いじりをしていたそうです。
それが曾祖父の死去により、農業を継ぐ事になったとか。
当時は「○○様」と言われるような家だったそうですが、戦争で失ったものもあったのもまた事実とか。
私の知る限りでは、農協の理事をやったり、リーダーとして色々と活動もしていました。


祖父は人格者だったからだろう、東京近郊にちらばっている娘達が毎週のようにお見舞いに来ていて、それなりに賑やかだったに違いありません。
5人姉妹の内、4人が看護師の資格を持っているのもあったろうし、また若い時から家を出て看護学校に寄宿し、都心に出て来た彼女達にとって、せめてもの親孝行という側面もあったのでしょう。
だがそこまで世話してもらえる祖父は、やはり人格者だったと思います。
つい先日も、最寄駅で田子町のにんにくを売っている出店があったので、寄って買ってみました。
その際、お店の方につい3日前まで田子に滞在していたと話し、母方の祖父が家があると話しました。
どこの家か試しに話すように促されたので祖父の名を明かすと、ひどく驚かれました。
「ちっさいけど、色々と活躍していたなぁ」等と言われました。


初孫だから可愛いというのもあったのでしょうが、祖父は私にもうるさい事を一切言わない、小柄だけど大きな人でした。
その人柄がのびのび過ごしやすい、あの家風に伝えられていると思います。
小学生の夏休みは、父方の実家と母方の実家に毎年交互に行く事になっていたので、その2年に1度の田子行きが楽しみで仕方ありませんでした。
ある夏休みなど帰宅したくなかったので、両親だけ先に帰ってもらい、弟と2人で1か月居た事もあります。
カブトムシ等の昆虫取りや、五女の叔母(当時は高卒直後だった!)に遊んでもらったりと楽しい日々を過ごせました。


私が祖父と最後に交わした言葉は、「もう帰るのか?」「うん。また近々来るね!」というものでした。
その際に祖父の頬をさすりながらでしたが、初めて触れられて良かったです。
今までありがとう。
それに私が生あるのはあなたのお蔭です。
安らかに眠ってね。


写真は先日の滞在最後の日に、皆で撮影した記念集合写真です。
加工前の写真では、皆、良い笑顔をしています。